BC200年前後 馬王堆医書※(陰陽十一脈灸経・足臂十一脈灸経など)が書かれた。
BC215年 倉公淳干意生れる 史記の成立がBC92年なので、これから計算すると倉公淳干意の生年はBC215年となる。
馬王堆医経、史記・扁鵲倉公傳、素問の三つを比較してみると、素問の中には他の二つよりも古いような内容はない。素問の成立は 、前漢初期のこれらの時期よりも遅い。
BC104年 太初暦の制定 漢の武帝 「太陽は寅なり」と規定。素問・脈解の冒頭「太陽寅、寅太陽也」。脈解篇は成立の上限 は、BC104年を遡らない。〔丸山昌朗「素問の栞」〕
※素問・脈解篇は脈經(王叔和の「脈經」以前の古脈經)の解説のために書かれた篇。荻生徂徠は『素問評』の中で、文体や使わ れ た文字を考えると、脈解篇は大奇論とともに最も古い篇であろうとしている。
AD79年 白虎観会議 五行説と陰陽論の整理が行われた
87~88年 「白虎通義」 班固
190年 難経 多紀元胤(医籍考)
李今傭 後漢の章帝の諱を難経は避けているから、それ以降の成立 →106年説
難經において、奇經八脈が整理される(二十七、八、九難)
BC104年~AD106年までの約200年間に素問の主要な部分が編纂されたであろう。
※1972年から73年にかけて、中国湖南省の長沙で発掘された馬王堆漢墓3基のうち、長沙国丞相犇(ダイ)候利蒼(だいこうりそう )の男子を葬った3号墓から出土した14種類の医書類である。これらの医書のほとんどは絹に書かれた帛書で、一部が竹簡と木簡で ある。この墓の主人が下葬されたのは、漢王朝の第5代目の文帝の初元12年(前168)であるから、これらの書の抄写年代はそれ 以前であり、戦国時代から秦末漢初のものとされる。 |